プールでの思い出
こんにちは。
後輩が「先輩の子供の頃の話は少年の心があっていいですね。」と言ってくれたので、思い出をひとつ。
小学3年の時の話です。
ある夏の日に近所の市民プールに一人で、出かけました。
いつもは子供用の水深の浅い25メートルプールで泳ぐのですが、その日は何故か大人用の水深の深い50メートルプールに行きたくなりました。
50メートルプールに入ると、やはり水深が深く、足が全く届かない深さでした。
プールに入るとそのことに恐怖を覚え、パニックになり、溺れてしまいました。
溺れながら、すぐ近くにいた女子中学生二人にに
「助けて~❗」と助けを求めました。
最初二人は、私がふざけていると思って笑ってましたが、本当に溺れてると分かって二人で、私を担いで助けてくれました。
プールサイドに連れて行かれて
(助かった)と思ってホッとしていると、
その女子中学生(高校生?)に
「ろくに泳がれへんのに、こっち来たらあかんやん!」と怒られました。
(それもそうやな。)と思っていると
その女子中学生が
「私らが泳ぎをおしえたるわ。」と言い出しました。
(え~っ)と思いましたが、助けてもらったので、強く拒否出来ませんでした。
25メートルプールに移動して、バタ足から1時間ぐらい特訓されました。
かなりスパルタな二人でした。
なんとか
「もう帰りたい。」と言って解放してもらい、帰りがけにラムネを、ご馳走になりました。
あの時は子供だったので、解放されたい気持ちばかりでしたが、もし私が名探偵コナンのように「体は子供、頭脳は大人」だったら、わざとその二人に抱きついていたり、甘えていたかもしれませんね。😂😂😂
(青山先生すいません、こんな妄想の例えに「コナン君を使ってしまいました。)😂😂😂
最後まで、読んでいただきありがとうございます。
謎の中華料理屋
こんばんは
今から20年くらい前の話です。仕事の研修で兵庫県のある街に行きました。
お昼休みの時に昼御飯を食べに行った時に、全く飲食店が見つからなくて、やっと1軒の中華料理屋を見つけました。
看板がかなり汚くて
(この店大丈夫かな?)と思ったのですが、周りに店もないため、やむを得ずそこに入りました。
店に入ると、店内にはランチタイムにもかかわらず客が2人しかいませんでした。
私が空いてるテーブルに座るといらっしゃいませの挨拶もなくカウンターの奥から店主らしき男が出てきました。
服は汚れていて見かけは初期の「美味しんぼ」の山岡史朗のような、やる気の無さそうな男でした。
無愛想な店主が、テーブルに水を置くと同時に
「ご注文は?」と聞いてきたので、テーブルに置かれたメニューを見ました。
驚いたことにメニューの品数は4か5品しかありませんでした。
ラーメンとチャーハンと餃子と鳥の唐揚げだけだったと思います。
(これはひょっとして、めちゃくちゃこだわりがあって、あえて品数を少なくしてるのか?
ひょっとして、隠れた名店なのか?)
と一瞬思いました。
無難にラーメンとチャーハンを頼みました。
すると店主がろくに返事もせずに、厨房の奥に引っ込みました。
オープンキッチンになってなくて、完全に客から見えない場所で、調理をしているようでした、
やはり、先ほどの期待は間違っていたのかと不安になりました。
5分くらいで、店主がラーメンとチャーハンを持ってきました。見た目はごく普通でした。
とんでもない仕上がりを想像していた、私はほっとしました。
(とりあえず食べられるな。)
そう思い、チャーハンを一口食べた瞬間に凄い違和感を感じました。
上手いとか不味いじゃなく、食べたことがある味だったのです。
(あれ、俺この店に来たことあったかな?
いや、そんな訳ない。)
そう思い二口目を食べた時に答えが分かりました。
その答えとは、いつも家でよく食べていた冷凍食品のチャーハンの味だったのです。
私はあまりのことに呆れてしまい、言葉が出ませんでした。
さてはと思い、ラーメンを食べてみるとこれもよくスーパーで売られてるバックの生ラーメンそのものでした。
あまりのことに呆れはててしまいました。仮にも自分で店を出しているのに、インスタント食品をさも、自分で作ったように提供するその無神経さに呆れて言葉が出ませんでした。
どんなに不味くても自分で作ってるほうが、よっぽどましです。
世の中にこんな店があるのかと、本当に驚きました。
何年後かに、その街を訪れると当然のことですがその店はなくなっていました。
最後まで、読んでいただきありがとうございます。
立命館大学の思い出その23(長崎での出来事)
こんばんは。
今から30年以上前のこと。
大学4回の時の2月に、友達のH君と九州に旅行に行きました。
その当時大失恋をした直後だったので、傷心旅行でした。
九州では車を借りて各県を回りました。
二日目の夜に、長崎でユ═スホステルに泊まりました。その日は私達以外に3人の宿泊者があました。
その中の一人に上智大学の4回の森七菜に似た可愛い女の子がいました。
[:plai
普通ならその女の子と仲良くしようとするところですが、当時大失恋をした直後だったので、そんな気になれなくて、イギリスから来たアンドリュー君とばかり話をしていました。
自分の英語が通用することも嬉しくて、ずっとアンドリューとばかり話していました。
特に森七菜とは何もなく、次の日の朝に宿を出ました。
宿を出て車に乗るやいなや、H君が怒り心頭で話しかけてきました。
『君は何を考えてるんや!」と凄い剣幕でした
私が驚いていると彼は続けました。
『あの女の子が、君と話しをしたそうにしてたのに、あんな訳の分からん外人とばっかり話して❗️。
これからの人生で、あんな可愛い上智大学の女の子と知り合える機会なんてないで。
君は千載一遇の機会を逃したんやで。
失恋してちょっとおかしくなってるんちゃうか
しかもあの娘一人旅やん。何かわけありに決まってるやん。
仲良くなる条件そろってたのに。」
とめちゃくちゃ怒られました。普段温厚なH:
君があんなに怒ったのは、この時だけです。
あまりにも怒られて、動揺した私は林道でカ═ブの時にハンドルを切り損ねて、危うく事故を起こすところでした。
その時は北斗七星の隣に小さい星を見た思いでした。😅😅😅
最後まで、読んでいただきありがとうございます。
祖母についての思い出
こんばんは。
今日は私の祖母について、書かせていただきます。
私の祖母は、兵庫県の山奥の田舎の村に住んでいました。
そのためか、人に対する壁がない人で、誰とでも気さくに話をする人でした。
そんな祖母がたまに大阪まで、長距離バスでやってくることがありました。
[
ある時に、バスの隣に座った女性と、とても仲良くなったそうです。
その時に祖母が私の話をしまして、
「私の 孫がもうすぐ30になるのにまだ結婚していないので心配している。」と言ったそうです。
するとその女性が
「それならば、私の娘と見合いさせましょう。」という話になったらしいです。
その方には、神戸大学を卒業したばかりの 娘さんがおられたそうです。
その時に娘さんの写真もお持ちで綺麗な方だったようです。
「おばあさんのお孫さんなら見合いさせたい。」とおっしゃったそうです。
この話しは実は私は全く知りませんでした。
この話の何年か後に母にこういう話があったと聞きました。
母が独断で、先方に電話をして丁重にお断りをしたそうです。
「何でその時に教えてくれなかったの?」
と母に聞いたところ
「綺麗な娘やったけど、お前とは合わへんと思ったし。それに万一上手くいって結婚でもしたらお母ちゃんが気を使うがな。
神戸大学出てる娘なんか、頭良すぎて私が疲れるわ。」
とのことでした。
まあ断るにしても、その時に教えてくれよとは思いましたね。
母には
「お前は、おばあちゃんに似てて人を簡単に信用するとこあるから気をつけな。もっと人の裏を読まなあかん。それに先の展開も読まないとあかん。」
とよく言われて たので、断ったんのは理解出きるけど一言言って欲しかった。
それだけですね。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
トムとジェリーを見ると思い出すこと。
こんにちは。
私が子供の頃人気のあった「トムとジェリー」というアニメがありました。
猫のトムとネズミのジェリーの追いかけっこのスラップスティックアニメなのですが、とても面白く私も大好きでした。
小学3年の時に隣の席に座っていた女子のOさんが、ある時そのトムとジェリーの大きな消しゴムを持ってきました。
私はそれを見つけて
(うわ!トムとジェリーや。)と思って、その消しゴムをまじまじと見つめていました。
するとその視線に気づいたOさんが
「○○君、この消しゴム欲しいの?」と私に話しかけてきたので、素直にうなづきました。
O さんは、それを見て
「分かった。明日持ってきてあげるね。」と
言ってくれました。
翌日Oさんが朝一番で
「はい。これあげる。」と私にトムとジェリーの消しゴムを手渡ししてくれました。
それはOさんが盛っていた消しゴムよりは、ワンサイズ小さいものでしたが、それでもトムとジェリーの消しゴムに私は大喜びでした。
その消しゴムがとても気に入ったので、私は授業中も、それをずっと見つめていました。
すると、どこのクラスにもいるお調子者がその様子を見て
「○○ずっとOさんにもらった消しゴム見てる~!
Oさ~ん、大好き!」と冷やかしたのでした。
私はそれを聞いて反射的に
「違うわ。トムとジェリーが好きなだけや!」と言おうとしたのですが、チラッとOさんを見ると真っ赤になって照れてました。
その様子を見て、子供心にも私がむきになって否定したらOさんを傷つけることになるなと思いました。
それで、何も言わずに黙っていました。この出来事からクラスでは私がOさんのことを好きだと言う既成事実が出来上がってしまいました。
正直に言ってそのOさんのことは特別に好きでも嫌いでもなかったのですが、今さら否定も出来ないなあと、そのままにしていました。
まあ子供でしたので、特別にOさんと何かある訳でもなく、その後Oさんとは別のクラスになり、それっきりでした。
今にして思えばどうしてOさんは消しゴムをくれたのかとか、ひょっとしたら私のことを好きだったのかなとも思いますが、確かめるすべもありません。
今でも「トムとジェリー」を見るとその消しゴムとOさんのことをふと思い出します。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
立命館大学の思い出その22(北斗の拳と以学館食堂)
今世間では「鬼滅の刄」が大人気です。先日公開された映画も大ヒットし、食品メーカーとコラボした商品も売り切れが出ているという凄まじい人気です。
私たちが、在学の時は「北斗の拳」が大人気でした。「北斗の拳」のおかけで少年ジャンプの発行部数も飛躍的に伸び、テレビアニメも大人気で今の「鬼滅の刄」に勝るとも劣らない人気を誇っていました。
毎週月曜日の週刊ジャンプ発売日には、大学前の
本屋には「北斗の拳」を立ち読みする学生で本屋に人だかりが出来ていたぐらいです。
そんな「北斗の拳」の人気を示す出来事が、学内の以学館食堂でもありました。
以学館食堂には、当時レジが3台ありました。お昼のピークタイムには3台とも稼働しているのですが、ピークを過ぎると2台は閉めていました。
その閉まっているレジの入口に一つは、ケンシロウの絵を書いて「このレジは、死んでいる。」と看板が置かれていました。
もう一台にはラオウの絵を書いて「通さぬ!」と看板が置かれていました。
おそらく「北斗の拳」が好きな従業員によって書かれたであろう、手描きの看板でした。
北斗の拳が好きな学生は、それを見て笑ってましたが、私は(おしいな。)と思いました。
何故なら稼働しているレジには、何も看板がなかったからです。私ならその稼働しているレジにトキの絵を書いて「止めはせぬ。」と描くのになと思ったものでした。関西人なので、どうしても一捻りを求めてしまうのでした。
まあいずれにしても、当時の「北斗の拳」の人気を示す出来事としてよく覚えています。
最後まで、読んでいただきありがとうございました。
アメリカで感じたWWFの進化とファンのシビアさ
アニマル・ウォリアーが亡くなりました。ホーク・ウォリアーも既に鬼籍に入っているためロード・ウォリアーズが二人とも、この世を去ったということです。
SNS ではアニマルの死去を嘆く書き込みが多くされています。それらの多くはウォリアーズは凄いチームだったと書き込んでいます。
おそらく日本でのウォリアーズしか、知らないファンの記憶には、ウォリアーズが相手を秒殺する姿が焼き付いているのだろうと思います。
私もウォリアーズが一時代を築いた伝説のタッグであることは否定しません。彼らがアメリカと日本で一時代を築き、ファンを熱狂させたことは事実です。
しかし私がウォリアーズを思う時には、その全盛期とは別の光景が記憶に甦ってきます。
それは、1999年のレッスルマニア15で見たウォリアーズの晩年の姿です。
この時に私は「ターザン山本と行くレッスルマニアツアー」に参加して、レッスルマニア15を見に行くために渡米しました。
この時に参加した理由はレッスルマニアを見に行くより、ターザン山本と話をしたいという気持ちが、大きくそんなにWWFが見たいという訳ではありませんでした。
したがって、アメリカンプロレスに対する知識もそんなにありませんでした。
WWFに関しては、ホーガンがトップだった頃の大味なバワーファイターばかりの団体という印象しかありませんでした。ツアーに参加した中には、私と同じ認識の人も何人かいました。
しかし、この認識が古いものでWWFが大きく進化していることを、このツアーで思い知ることになりました。
この時に観戦したレッスルマニア15は過去に私が観戦したプロレス興業の中で、間違いなく最高のものでした。
演出も素晴らしいですし、出場するレスラーが、全て自分の役割を熟知していて、一級のエンターテイメントワールドを作り上げていました。後にも先にもこんな素晴らしい興業を体験したことはないです。
WWFが大味なバワーファイターだけの団体というのは、間違った古い認識であることを思い知らされました。
話をウォリアーズに戻します。ウォリアーズはレッスルマニア当日、その本大会前のアンダーカードに出場していました。(テレビに映らない試合です。)
ウォリアーズの出場を知らなかった私と日本から来た一部のファンは喜びました。
しかし、アメリカのファンと日本から来たファンでも、アメリカンプロレスに詳しい人は白けていました。
無反応と言ってもいい冷めた反応でした。
彼らの対戦相手はオーエン・ハートとジェフ・ジャレットでした。当時の私の印象では二人ともジュニア・ヘビー級の選手という印象でした。
試合もウォリアーズが秒殺するのかなと思いました。
しかし現実は大きく違いました。まずオーエンとジェフが入場するとウォリアーズとは比べ物にならない歓声が起きて、ファンは大喜びしていました。
この時に(もしかして、この二人の方がウォリアーズより格上なのかな?)という思いを抱きました。
そんな私の違和感ともいえる思いと共に試合が始まりました。ウォリアーズがいつもの秒殺スタイルでオーエンとジェフに襲いかかった時に、会場全体に日本では聞いたことのない、コールが響き渡りました。
それは「ボーリング❗ボーリング❗」という大合唱てした。私はこのコールの意味が全く分かりませんでした。そばにいたツアー客の一人に聞くと
「ああ、これはお前らの試合はつまらない。」って意味ですよ。ウォリアーズはもう完全に過去の人なんですよ。」と教えてくれました。
私はこの言葉に驚きました。まだブーイングなら分かります。ヒールとして客を沸かせてるわけですから、それはヒールレスラーとしての存在証明と言えます。しかし「ボーリング❗」は意味が違います。
「お前らの試合は見るに値しない。」と存在価値を否定されてるわけですから。
私の驚きをよそに試合は5分程度で、ジェフジャレットがギターでホークを殴って失神させ勝ちました。その結末に会場のファンは大喜びでした。
私はこの試合結果に驚きつつも、時代が変わっていることを痛感しました。
その後日本に帰った私はスカパーと契約して、WWFを見続けました。それで改めて思ったのは、
WWFは常に進化を続けているということです。
時代の要請に合わせて常にニュースターを産み出そうと努力しているということです。
これは当時のライバル団体WCWに既存のビッグネームを取られたWWFが、そうせざるを得なかった訳ですが、その結果爆発的な人気を得ることが出来たわけです。
当然そこでのレスラーの生存競争はシビアなものになり、変化できないものは淘汰されていきました。その中にウォリアーズも含まれていたということです。ウォリアーズは色んな抗争相手とその都度ドラマを作ることが出来なかったということです。
私はそれで良かったと思います。ウォリアーズが抗争相手に合わせてスタイルを変化していけるような器用なレスラーなら、ここまでファンの記憶には残らなかったと思います。
いつも決まったパターンの試合しか出来なかったので、その分ファンの記憶に残るチームになったのだと思います。
特に日本のファンの記憶には強いウォリアーズしか残っていないのだと思います。
日本には、たまにしか来日しない特別参加がほとんどだから飽きられることもなかったのかも、しれません。
そう考えるとアメリカで10年以上も一つのスタイルで一線を張りつづけたのは、凄いことだと思います。
アニマルに哀悼の意を表しつつ、この投稿を締めくくらせていただきます。
ウォリアーズよ永遠に❗
最後まで読んでいただきありがとうございます。