3つの宝箱(あるいは思い出という名の公園)

私にとっての3つの宝物といえるプロレス・映画・学生時代の思い出や、日々の雑感を語るブログです。

哀愁のジプシ―ジョ―

 私がプロレスを見始めた頃には、3つのプロレス団体が存在していました。
ジャイアント馬場の全日本、アントニオ猪木の新日本、そして国際プロレス
今回は国際プロレスについて書かせていただきます。

国際プロレスには、馬場や猪木のような突出したス―パ―スタ―がいませんでした。ラッシャ―木村というエ―スがいたのですが、馬場、猪木のようなカリスマ姓はなく、試合内容も地味なため団体自体の人気も他の2団体に大きく水をあけられていました。
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中継のテレビ局も東京12チャンネルだったため、地方の中継局も少なかったのも、人気が出ない一つの要因だったと思います。
東京12チャンネルがネット数が少ないということは、当然国際プロレスに割ける予算も少ないというかことです。

そのため外人招聘に使える予算も、当然少なく他団体に比べて呼べる外人レスラ―も地味な顔ぶれになっていました。
その中の一人にジプシ―ジョ―というレスラ―がいました。
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このジプシ―ジョ―は、国際プロレスのシリ―ズの柱となるエ―ス外人の一人で、小柄ですがとにかく頑丈なレスラ―でした。
なにしろ角材で叩けば角材が折れ、チョップをした相手の手が腫れ上がるほどの頑丈な肉体を持っていました。
特にエ―スのラッシャ―木村との金網デスマッチは、毎回壮絶な試合になり国際のドル箱カ―ドとなっていました。

私はこのジプシ―ジョ―が好きでした。小さい身体を張って懸命に戦う姿にプロ根性が感じられて好きでした。
それは単に自分のレスラ―としての存在を証明するだけでなく、国際プロレスのために身体を張っているように私には感じられました。
そこに男気を感じ、ジプシ―ジョ―に惹かれたのです。

しかしジョ―の奮闘も空しく、国際プロレスは昭和56年に崩壊しました。所属レスラ―は、それぞれ全日本、新日本に別れて参戦することになり、ジョ―は全日本に参戦しました。
 大物外国人レスラ―が多い全日本で、ジョ―は自分の存在感アピ―ルするために、以前より一層身体の頑丈さを売り物にしていました。

そのため対戦相手に椅子で自分の背中を叩かせるパフォーマンスだけが、強調されることになり見ている私は痛々しさを感じました。
ただそうでもしないと、外国人レスラ―が多い全日本では、生き残っていけないということは理解できました。
いつも複雑な思いでジョ―の殴られパフォーマンスを見ていました。
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その後ジョ―を全日本で見かけることも無くなり、時は流れました。
1995年に前に書いたように、三重県に旅行した際にIWA ジャパンという団体の興行を見に行きました。

会場に早めに着いたので、体育館の前で友人と開場をまっていたところ、一人の男が上半身裸で日光浴をしていました。
遠目では、誰か分からなかったのですがレスラ―にしては小さいなと思いました。
その男は日光浴していたベンチから、立ち上がり辺りを見渡しました。
私はその男をもう一度見て驚きました。
ジプシ―ジョ―その人だったからです。

遠目では、ジョ―と分からないぐらい痩せて、髪の毛も薄くなっていました。
(こんなに痩せてしまったんだ。)私は切ない気持ちを禁じ得ませんでした。

時が経っているのは分かっていましたが、すぐにジョ―と分からないぐらいやつれていたからです。
ジョ―は、この日レフリ―として登場することを後で知りました。

会場には、他のIWA ジャパンの選手が会場入りするのを待っているファンが数10名ぐらいいましまが、誰もジョ―に気がついていないのか誰一人声をかけませんでした。

その後人気選手が次々と会場に現れ、ファンたちはそれを追いかけいなくなりました。

後にはジョ―と私だけが残されました。
声をかけるべきがどうか私は迷いました。果たして
この状況でジョ―に声をかけるのが正解なのかどうか、私には判断がつきかねました。 
誰も気がつかないジョ―に声をかけるのが、憐れみのようにジョ―に解釈されて、ジョ―のプライドを傷つけることにならないかと悩んでいました。

するとその時ジョ―が、こちらを見てニヤッと笑って、その場を立ち去ったのです。
明らかに私の方を見ていました。
その後ろ姿が、「憐れみなんかで声をかけてくれるな、俺はジプシ―ジョ―だ。」と語っているようでした。

あの時本当に声をかけなかったのが、正解だったのかは、分かりません。
ただジョ―の笑いと後ろ姿にレスラ―としての矜持を感じました。
今ではそれで良かったと思っています。
ジプシ―ジョ―本当のプロだったと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

あしたのジョーについてその7(ジョーをとりまく男達 ウルフ金串)

ウルフ金串は、ジョーがプロで戦った最初の強敵といえる男です。
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ジョーとの因縁は、ジョーがウルフの控え室でウルフに言いがかりをつけるところから始まっています。二人は素手での殴り合いになり、ジョーのクロスカウンターで相討ちになります。

これは当時ボクシング界から閉めだされていた丹下ジムをボクシング界に復帰させるために、ジョーがとった手段です。
丹下ジムを閉め出していた中心となっていたアジア拳の所属選手のウルフに喧嘩を売ることにより、強引に丹下ジムのライセンス復帰を認めさせた訳です。
何しろプロデビューもしていないジョーとアジア拳の金の卵と呼ばれていたウルフが引き分けたという事実は放置できないので、プロのリングで決着をつけるしかない訳です。
見事ジョーの思惑通り、丹下ジムのライセンスは復活し、二人はプロで戦うことになります。

ウルフという男は小心者であり、思慮も浅いです。
試合前にトイレに何回も行ったりするところや、ジョーのクロスカウンターに怯える描写からウルフの小心な性格が伺います。

小心な半面、人に対して優位に立つと途端に傲慢になるところもあります。
アジア拳の大高会長からクロス破りの秘策を授けられると、今までの怯えた態度から一転して勝利を確信し傲慢になります。

自ら左ストレートを打つと公言したり、ウルフの秘策を探りに来たドヤ街の子供達をリングに上げて制裁したりします。
その結果段平に秘策のダブルクロスを見抜かれ、ジョーにトリプルクロスカウンターで敗北します。
トリプルクロスによりジョーにアゴを砕かれ、ウルフは再起不能となります。
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その後のウルフについては、ジョーその1で書いた通りヤクザの用心棒に身を持ち崩し、ゴロマキ権藤に叩きのめされたところをジョーに助けられます。
このことをウルフは、どう思ったのでしょう。

権藤に叩きのめされる直前にウルフはジョーのことを「矢吹という石っコロにさえつまづかなければ。」と言っています。
この言葉が明らかに示すように、この時はウルフはジョーに対して怨みの感情を持っています。
それがジョーに助けられて、どのように変化したのか、原作ではその描写はありません。

その後ウルフはジョーとホセとの世界戦まで作品には出てきません。
その時の状況からその後のウルフの心中を察すると、まず少なくともジョーに対しての怨みの感情は消化されていると思います。
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わざわざ自分のお金と時間を使って試合を観に来ているのは、ジョーを応援する気持ちがあったからでしょう。ジョーがやられるのを期待して観に来たわけではないと思います。

序盤にジョーが苦戦している時にウルフが呟いた言葉にそれが表れています。
「じれったいなぁ、あんなんじゃ俺が相手しても負けやしないぜ。」
こうウルフが呟いた言葉にウルフの心中が見えてきます。
自分を倒したジョーに世界を取って欲しい。それを見届けにきたのにジョーの不甲斐なさに苛立ちを覚え、また奮起を願うウルフの気持ちが読み取れます。

ここに至るまでのウルフの気持ちの変化には、やはりあの権藤事件が影響していると思います。
あの事件の後、おそらくウルフは病院で自分を助けてくれたジョーの話を聞いたことでしょう。
そして、その時にジョーが権藤に見せた尋常ならぬ怒りのことも。

そこに戦友としてのジョーの自分への深い思いにウルフも初めて気づき気持ちの変化があったのでしょう。
そしてウルフは世界戦の行われる国技館に足を運んだわけです。
そう戦友矢吹ジョーを応援するために。
最終ラウンド激闘が続く中ウルフがこう叫びます。
「矢吹カウンターはどうした。お前得意のカウンターを見せろ!」
この言葉に答えるかのように、ジョーはホセにクロスカウンター続けてトリプルクロスカウンターを炸裂させます。
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ウルフとジョーの因縁がこの瞬間、戦友という強い結びつきの絆へと昇華されたと思います。
ウルフも間違いなくジョーのライバルの一人だったと言えると思います。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

教育現場の問題についての私見

新聞やテレビを見ていると、相変わらず学校でのいじめや不祥事を取り上げたものが、後をたちません。
中には、自ら命を絶ってしまう子供もいて心が痛みます。これだけいじめの問題が継続して起きているのに、学校の教師や教育委員会が真摯に対応出来ていない案件があまりに多いと感じます。
子供たちのSOS に気づかず、事態を深刻化させたり、全く子供に向き合わず状況を把握する能力のない教師もいます。

私自身も小学校の時に苦い思い出があります。2年の時に担任になった女教師が真摯に問題に向き合ってくれなかったからです。
この女教師は、ベテランでしっかりしているという前評判でしたが、簡単に言うと力で生徒を押さえつけるタイプの教師でした。
今の時代なら許されないのでしょうが、うるさく騒ぐ生徒にはビンタやゲンコツや廊下に立たせたりと言葉ではなく力を持って、静かにさせるという人でした。
子供心に(この人とは合わないな。)と嫌悪感を感じたものでした。ただそういう教師に当たってしまったので、そのやり方を受け入れるしかありませんでした。特別に反抗することもなく、その教師のやり方にしたがっていました。

そんな中で、ある日トラブルが起きました。どこのクラスにもいる性格の良くないボスタイプの子供が自分の子分を使って、その日ずっと二人がかりで私をからかってきました。私もずっと我慢していたのですが、いつまでたっても私への悪口を止めそうにないので、我慢しきれず殴りあいの喧嘩になりました。
2対1なので、私に勝目はないのですが、我慢の限度を越えたので立ち向かったわけです。
休み時間中の出来事でしたが、クラスが大騒ぎになり、誰かが職員室にその教師を呼びに行きました。
そこで教師が喧嘩を止め、経緯を聞いてきたので、今までのことを説明したところ
「喧嘩両成敗じゃ」と言って、私たち3人を並べてげんこつで一発ずつ頭を殴ったのです。
私は唖然としましたが、泣きながら猛然とその教師に抗議をしました。
「確かに喧嘩をしたことは悪い。ただ罪の比重があるはず。こいつらがずっと挑発してこなければ喧嘩にはならなかったのに同じように両成敗というのはおかしい。こいつらの方が悪いのが分からないの?」
子供だったので、そこまで理路整然とは言えませんでしたが、そのような意味合いのことを必死に訴えました。
それに対して、その教師が言ったのが
「我慢できなかったお前も悪い。ずっと無視してたら相手もやめたはず。(悪口を)」
私は(ああこの人ダメだな。)と心底ガッカリしました。私がどれだけの時間我慢して、どういう思いで二人に立ち向かっていったのか全く理解しようとしないその態度に絶望感を覚えました。
おまけに通知票には「子供らしい素直さが欲しい。」と書かれました。

もうこの教師には何を言ってもダメだなと子供ながらに思ったものです。

もし私のこのブログを教育に携わっている人が見るならお願いです。子供たちの言葉に真摯に耳を傾けて下さい。子供だからといっておなざりな対応をしないで下さい。子供たちは、あなたたちが思っているより人のことをよく見ています。その人の本質を見抜く力を持っています。
小学2年の時の私のように子供をガッカリさせないでください。そして子供が何らかのSOS を発信していたら真摯に向き合って解決してあげて下さい。
これ以上教育現場からの悲しいニュースは、聞きたくありません。
柄にもないことを書きましたが、心からそう思います。

最後まで読んでいたたきありがとうございました。

立命館大学の思い出その11(遠い春と私だけの十字架)

私が学生の頃は、携帯電話もスマートフォンもありませんでした。
誰かに連絡するためには、固定電話にかけることでしか、連絡できない時代でした。
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今までに何回か書かせていただいたとおり、当時私には想いを寄せている憧れの女の娘がいました。
その娘とは、電話でやり取りをよくしていたのですが、前述したように当時は携帯電話などありません。
連絡するのは固定電話なのですが、その娘は当時下宿しており自分専用の電話を持っていなかったのです。そのため下宿の共有電話にかけて、彼女を呼び出してもらわないといけなかったのです。
何せ小心者の私にはなかなかハードルの高いことで、いつもドキドキしながら電話をかけたものです。
電話番号の最後の一けたを押すのも、躊躇したりしながら勇気を振り絞って電話していました。
電話がつながって、電話に出た女の娘に「○○さんお願いします。」と言うと取り次ぎの女の娘が、「○○さん電話」と呼びかけ、奥の方から「はーい。」という声が聞こえ、憧れのその娘の足音が聞こえてくると本当に逃げ出したくなるくらい緊張して、胸がドキドキしたものです。

彼女との会話は不思議と弾みました。私の方が主体となって話をし、彼女が受け手にまわることがほとんどでした。 
当時彼女に言われたことで、一つ印象に残っているのが
「よく話が飛びますね。」と言われたことです。
これは私が当時全日本プロレスを席巻していた長州ジャパン軍のように次から次へと技を繰り出すハイスパートレスリングのような会話をしていたためにそう言われたわけです。
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それに対し彼女はしっかりと相手の技を受けて、それに対応する王道の全日本プロレスのような会話をしていたと思います。

本来噛み合うことのない二人の会話は不思議と噛み合い、時間があっという間に過ぎたものでした。
村上龍が小説「69」の中で「可愛い娘といるだけで、どうしてこんなに楽しいんだろう。」と書いていましたが、本当にそんな風に思えました。
いつも彼女に電話する前は、会話がとぎれないようにと事前に話のネタを幾つか書いて用意していましたが、一度も使うことはありませんでした。そんなものがなくとも会話が続いたからです。

当時長州と全日本プロレスで抗争していた天龍が、「長州との試合では自分でも思っていなかった技が出るんだ。」と語っていましたが、同じように私も
「彼女との会話では、自分でも思っていなかったような話が出るんだ。」と思ったものです。
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今にして思えば、私が会話の主導権を握っているのではなく大人の彼女に会話をリードされていたのだと思います。
そう彼女はまるで往年の名レスラー、ニックボックウインクルの「相手がワルツを踊ればワルツを、ジルバを踊ればジルバを」の言葉のように上手く私に合わせつつ、主導権を握っていたのだと思います。
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結局片思いのままで、私の想いは成就することはありませんでした。キャンパス内の緑の公衆電話から彼女の下宿に電話をかけることが、多かったため今でも緑の公衆電話を見ると切なく当時を思い出すことがあります。
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本来は彼女の人生に接点のなかった私が、無理に接点を作り彼女に迷惑をかけたことを申し訳なく思っています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

立命館大学の思い出その10(裏切りの新日本、大阪の夜。)

3回生の秋に友達と新日本プロレスを見に行った時のことです。1987年の9月17日に大阪府立体育館に行きました。
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当時新日本プロレスは、全日本から出戻ってきた長州が中心となった新旧世代闘争で盛り上がっていました。
これは長州が猪木を中心とする現状のトップ勢(旧世代)から自分たち新世代へのトップの交代を公言して戦いを挑んだものです。
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本来は長州と敵対している藤波や前田とも手を組んでの新旧世代闘争は、新日本の興業の柱となり大阪でもその大会が開催されることとなったわけです。

何故その興業を見に行ったのかには、大きな理由がありました。当時長州が全日本との契約問題でテレビ朝日新日本プロレスに出られない状況でした
そのため長州が出場する大阪大会のメインイベントは当然テレビ放送されないため、生観戦しないと見ることが出来なかったのです。
事実新旧世代交代の第一弾として、東京の両国で開催された世代交代イルミネーションマッチの第一弾は、ノーテレビでした。なおかつ大変面白い試合だったとの評判だっため、その第二弾の大阪大会をどうしても見たかったのです。

ちなみにこの時のイルミネーションマッチとは、お互いに5対5で戦い負けた選手が退場していき、最後まで選手が残った側が勝ちという試合方式です。
東京の第一弾が好評だったので、大阪で第二弾となったわけです。
旧世代側が猪木・坂口・斎藤・藤原・星野、新世代側が長州・藤波・前田・マシン・高田という顔ぶれで試合が始まる前日まで友達と試合展開を想像して楽しんでいました。

当日は会場も超満員で、セミファイナルまで滞りなく進行し、いよいよメインイベントになりました。
旧世代と新世代が一人一人それぞれのテーマ曲に乗って登場してくると、その度に会場は大盛り上がりで完全に雰囲気は、出来上がっていました。
この時驚いたのは、長州と前田の二人への声援が完全に猪木への声援を上回っていたことです。
何か本当に世代交代をみんな期待しているのかと思ったものです。
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選手が全員登場した後に異変がおきました。猪木が何か星野に耳打ちすると星野が控え室に引き上げてしまったのです。私はエッと思いましたが、その後にもっと驚くことが起きました。
猪木の「おーい。出てこい!」の掛け声と共に何とテーマ曲が鳴り響き、ディック・マードックが入場してきたのです。
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私は唖然とすると共に、落胆と憤りを感じました。
その理由が二つあります。一つは事前に発表されていたメンバーを何の説明もなしに変更したこと。私は星野と新世代のからみ、特に前田との対決を楽しみにしていたこともあって理由なしの変更に本当にガッカリしました。
もう一つはマードッグがメンバーに入ることによって、当初の新旧世代交代というテーマがぼやけてしまうこと。世代交代に全く関係ない外人のマードッグが入ることにより日本人同士の世代交代をかけた戦いという意味合いが薄れてしまうのです。
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一緒に見に行った友人も同じ思いだったようで、「ひどいな猪木」と憤ってました。しかし観客の多くはこの交代をむしろ喜んでいるように見えました。星野より強力なメンバーのマードッグが入ることにより、より試合が面白くなると考えているようでした。

ただ私はこのメンバー交代が意図する最悪の事態を考えて(まさかな)と思いつつも嫌な予感を感じていました。
私の不安をよそに試合が始まりました。先発は長州とマードック。私の不安はますます高まりました。
案の定試合が始まって二分足らずで、二人が揉み合って場外に転落し、二人共失格になりました。
(あーあっ、やっぱりな。)と私は自分の予感が的中したことに大いに落胆しました。

つまりこういうことです。前述したように当時長州はテレビ朝日に出ることが出来ない状態でした。つまり長州が勝ち残っていると試合をテレビに流せない。逆に言えば長州を早めに消してしまえば残りの試合は放送出きるわけです。
ただ長州を猪木達、旧世代に負けさせる訳にはいかない。そこであえて世代闘争に関係ない外人のマードッグを登場させて、長州を真っ先に脱落させた。
これにより、後のメンバーによる試合は丸々テレビ放送出きることになったのです。

恐らくテレビ朝日の意向から考えられたシナリオだと思いますが、私は本当にガッカリしました。長州がテレビで見れないから、わさわざ入場料を払って試合を見に来たわけです。イルミネーションマッチ自体も長州がいるのでノーテレビだから生で見ないと見れない。そう考えてきたのを丸ごと裏切られた訳です。長州が脱落した後の試合は、それなりに熱戦で面白かったと思いますが、裏切られた思いの方が強く心の底から試合は楽しめませんでした。
友人のT君も同じ思いだったようで、「二度と新日本プロレスは見に行かない。」と言っていました。
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実際にお金を払って会場に見に来ている観客の気持ちを考えない猪木及び新日本プロレスの姿勢が、後の両国国技館の暴動などを起こす原因になったのかなと思います。裏切られた気持ち一杯の後味の悪い試合観戦でした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

プロレス初観戦で気づかされた自分の嗜好と大阪のファンのシビアさ。

私が初めてプロレスを生観戦したのは、昭和55年12月10日のことでした。もう今から40年近く前のことになります。新日本プロレスの第1回MSGタッグリーグ戦の決勝戦大阪府立体育館に友達と二人で、見に行きました。
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その前日には同じ会場で全日本プロレス世界最強タッグリーグ戦が開催されており、どちらを見に行くのか迷いました。新日本を見に行く決めたのは、新日本の方は優勝決定戦であるのと、アンドレジャイアントが見たかったためです。あのアンドレの規格外の大きさをこの目て見たいと思ったからです。
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一月ぐらい前から、その日が来るのが待ち遠しかったものです。当日ワクワクしながら友達と出掛けました。友達も気合いを入れて、一眼レフカメラを持参してきました。

会場に入ってまずパンフレットを購入し、当日の対戦カードを確認し試合開始を待ちました。
第1試合が始まり、一番驚いたのが実況中継が館内に流れていないことです。テレビでしかプロレスを見たことがなかったためアナウンサーの実況が館内にも流れていると思っていたのです。
(実況って館内には流れてないんや。)とガッカリしました。テレビ中継に慣れていたため、実況がない試合には、違和感を感じたものです。

第二試合で永源遥上田馬之助の凶器攻撃で2分足らずで負けた時館内に永源に対する「アホ」コールが響き渡り、(流石大阪の客やなぁ)と感心したものです。
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上田の凶器攻撃を非難するよりも、2分足らずで負けた永源の不甲斐なさを責めた訳です。
これが大阪でなく他の会場であれば、恐らく観客は上田を責めたはずです。
払った入場料の元をとろうと考える大阪の客にとっとは、そんなにあっさりと負けてしまう永源に(もうちょっと頑張って楽しませろや。)という認識があったと思います。

同様のことが、セミファイナルの「タイガージェットシン対ダスティローデス」戦でも起きました。
試合が場外乱闘に終始し、2分くらいで無効試合で終わってしまったのです。
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この時は、会場が騒然とし「ふざけるな!」とか「金返せ!」とか怒号がうずまきました。
永源対上田と違い、この試合を楽しみにしていた客も多く、私の周りの客も怒りを露にしてました。
私も凄くガッカリし、(これやったらシンとローデス出てないのと一緒やん。)と淋しい気持ちになりました。

しかし、その後メインで猪木が入場してくると場内の空気が一変し会場が猪木コール一色に変わり私は、(やっぱり猪木ってスーパースターやなあ。みんなあんなに怒ってたのに。)と場内の空気をガラリと変えた猪木に感心したものです。

メインイベントの猪木、ボブバックランド組対ハンセン、ホーガン組は優勝戦に相応しい熱戦でした。
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結果は猪木がホーガンを仕留めて優勝しました。
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この時思ったのは、猪木は勝負を魅せるレスラーだなということです。
この試合猪木以外の三人が外人だったのですが、外人同士が、戦っている時は勝ち負けよりも、お互いの攻防、肉体のぶつかり合いを楽しむことに観客の
意識も向かっていました。
ところが、猪木が出た瞬間に観客の意識が猪木が勝つか負けるかに変わってしまうのです。

言わば猪木は勝負を魅せ、他の三人はプロレスを魅せていた、そういう印象を持ちました。つまり言い換えると猪木以外の三人は、全日本プロレススタイルの試合をやっていたと思います。
そういう意味で他の三人は、(全日本に来たらいいのになぁ)と見ながら思ったものです。特にホーガンは(体もでかいし、こいつ絶対全日本向きやん。)と思ったものです。
新日本の試合を見ながらそんなことを考えてしまう自分に気づき、(やっぱり俺には全日本が合ってるねんなぁ)と改めて自分の嗜好にきづかされたプロレス初観戦でした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

三重で見たテリーファンクの生きざま

1995年の出来事なので、今から24年くらい前の話です。友人のH 君と車で旅行に出かけていました。
特に目的地はなく気ままな二人旅でした。
三重に立ち寄った時、たまたまその日IWA ジャパンという団体のプロレス興行が、あることを知りました。

そして、その出場メンバーの中にあのテリーファンクの名前があったのです。
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テリーと言えば、私がプロレスを好きになるきっかけとなったレスラーで、プロレスファンなら誰もが知っているビッグネームです。そのテリーが試合をするとあっては見ない訳には行きません。その日は三重に泊まることにし、早速チケットを買いました。テリーの他にも、タイガージェットシン、テリーゴーディ、ダンスバーンなど豪華な外国人が出場するということで期待が高まりました。

その日の試合のことに触れる前に少しテリーについて語らせてもらいます。
先程書いたように私が、プロレスを好きになるきっかけとなったレスラーがテリーです。
テリーを初めて見たのは、1977年のオープンタッグ選手権です。
常に全力投球で、喜怒哀楽の感情をむき出しにしたテリーの試合に子供の頃夢中になったものです。
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あの天龍が、「特別に技が切れるわけでもない。
パワーがあるわけでもない。スタミナがあるわけでもない。それでもトータルで見たら誰もかなわないのがテリーファンクだ。」と天龍らしい褒め方をしていました。
天龍が、地方でも、決して手を抜かないのもテリーがお手本になっているのは有名な話です。

そのテリーの試合を旅先で見るのも趣深いと夜に向けてワクワクしていました。
夜になり会場に入れる時間となり体育館に入ると、何とテリーが売店に座って、自分のグッズを売っているのです。
これは行かなければと、早速売店に行きテリーのTシャツを購入し、サインをしてもらいました。
その頃テリーは50歳ぐらいで、選手としては峠を越していましたが、スターとしてのオーラが体中からにじみ出ていました。
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(やっぱりテリーは、いくつになってもかっこええわ。)としみじみ思ったものです。。
憧れのテリーに会えた訳なので、サインだけではと思い、思いきって英語で話かけてみました。
テリーがこの団体の企画していたデスマッチトーナメントに出場することを知っていましたので、
「I hope that you will win tonament.(あなたがトーナメントで勝つことを望んでいる。)」と話けたところ、テリーが私に顔を向けて
「I hope so.(俺もそう望んでいるよ。)」と答えてくれたのです。
これが最高にかっこよくてしばらくこの時のテリーの真似をよくしていたものです。

この後テリーは「俺にはもう若いときのようなスタミナもないしパワーもない。体もガタがきていて、半分ポンコツさ。それは分かっているんだ。でも俺にはハートかある。誰にも負けないプロレスを愛するハートがね。」と語ってくれました。
私はそれを聞いて(ああテリーは、ほんまにプロレスが好きなんやな。)と感動したものです。

その日の試合でも、テリーは目一杯頑張って三重の夜を熱く盛り上げてくれました。
何しろプロレスに興味のないH君が
「テリーって凄いな」と言っていたぐらいです。
最高の思い出をくれたリビングレジェンド、テリーファンクにこの文章を捧げます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。