3つの宝箱

私にとっての3つの宝物といえるプロレス・映画・学生時代の思い出や、日々の雑感を語るブログです。

「マジェスティック」に感じる人の普遍的な願望。

 今回は、私の好きな映画について書かせていただきます。
2001年に公開されたフランク・ダラボン監督の作品「マジェスティック」です。
この作品を見るたびに、いつも爽やかな感動を覚えます。
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大まかなストーリーは、こうです。
ハリウッドの新進の脚本家ピーター・アブルトンはあることから共産党員の疑いをかけられ、決まっていた仕事もキャンセルとなります。
今後の仕事の見通しもたたない状態になったピーターは、酒に酔ったまま車を運転して事故を起こします。
川に流されて、彼はローソンという町で発見されます。
記憶を無くした彼は、かってローソンで出征したまま帰ってこなかった町の英雄ルーク・トリンブルに間違えられます、
そしてルークとして町で暮らすことになります。
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私は何回となくこの映画を見ていますが、その度に
感動します。
その理由を考えてみると、一つの結論にたどり着きます。
それは、この映画が誰しもがもつ、普遍的な願望を描いているからです。
その願望とは、「あの人にもう一度会いたい」という思いです。

人は誰もが、いなくなった誰かにもう一度会いたいという願いを持っています。
それは人によっては、別れた恋人であったり、亡くなった肉親であったりさまざまでしょう。
ただそれぞれの心の中には、「もう一度あの人に会いたい」という思いは必ずあると思います。

この映画は、それを疑似体験させてくれるから私は感動してしまうのです。

ピーターとルークは、瓜二つですが別人です。ピーターをルークとして考えた場合矛盾する点がいくつもあります。
しかし、ローソンの人々は、それらには目をつぶりピーターをルークとして扱います。
それは何故でしょう。その答えはピーターこそがみんなの希望を体現しているからです。
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ローソンでは、多くの若者か出征しました。殆どの人が戦死し、帰ってきませんでした。
そんな中戦死されたとされていたルークの遺体は、見つかっておらず、もしかしたらという希望をローソンの人々はもっていたのです。

そのルークが見つかったので、人々は多少おかしな点があっても、そこには目をつぶりピーターをルークとして受け入れたのだと思います。
ルークが帰ってきたことが、他の若者たちが戦死した中での唯一の癒しともなるからです。
人は自分の都合のいいように事実を受け止めるものです。 

私にも苦い思い出があります。
大学の時に好きだった女の子によく似た娘と30代中頃に知り合いました。
あまりに雰囲気が似ていたので、大学のあの娘が帰ってきたような気になりました。
そして、デートに誘い一度二人で出掛けました。
失なわれた過去が帰ってきたようで、私の心は弾みました。

しかし、その日の晩に知らない男から電話が、かかってきて
「もうその娘にちょっかいを出すな。」と言われました。
私は二股をかけられていたのです。

私は自分の愚かさを嘆きました。過去に好きだった女の子の幻影をかってにその娘に見ていた自分の未練がましさに涙が出ました。
二股をかけるような女の子の本質を見抜けなかった愚かさと、もうその娘はいないという現実を突きつけられて、どうしようもなく悲しくなりました。

ローソンの町の人々も私と同じような悲しみを味わいます。ピーターとルークが別人という事実を突きつけられたからです。
FB Iがピーターを見つけ出し、ローソンの町に現れたのです。
FB I からピーターの正体を告げられた人々は失望し悲しみます。自分たちの夢の終わりを告げられたからです。

しかし私の体験談と違いこの話は、まだ終わりません。
FB I の査問会にかけられたピーターは、予め渡された声明文を読むことにより、身柄の自由を約束されていました。
その声明文は自分を共産党員と認め、他の共産党員リストの名前を読み上げるというものです。

ピーターは査問会で、この声明文を読むことをしませんでした。
彼はルークなら、この場面でどうするかを考えたのです。そしてルークなら保身のための声明文など読まないと考えそうした訳です。
さらにビーターは自分たちの意に沿わない思想や発言を封じ込めるような狭い心の国のためにルーク達は命を落としたのではないと主張します。
このピーターのスピーチは人々の胸を打ちます。
そしてピーターは、英雄視され無罪放免となります。
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自由の身となったピーターは、脚本家の職を捨てローソンの町に向かいます
そこでピーターを待っていたのは、町の人々の熱烈な歓迎でした。
ルークの思いを代弁してくれたピーターをローソンの町の息子として受け入れたのです。
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この場面は何度見ても感動します。ピーターはルークではなかったけども、ルークの精神を引き継いでいる。
そのピーターが町に帰ってきたことが人々の癒しであり、喜びになっているのです。

おそらく現実には、このようなことは起こらず、この映画は一つのファンタジーと言えるのでしょう。
しかし人々は、みんなこの映画のピーターのように
例え本人でなくてもその人を思い起こさせてくれる誰かを待っているのかではないでしょうか。
この映画を観るといつも、そんな思いで胸がいっぱいになります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。