3つの宝箱

私にとっての3つの宝物といえるプロレス・映画・学生時代の思い出や、日々の雑感を語るブログです。

昭和プロレスを巡る謎その7(日本リ―グ争覇戦の謎)

 国際プロレスが、昭和53年11月3日~30日の期間に日本人選手によるリーグ戦「日本リーグ争覇戦」を開催しました。
これは、吉原社長のプロレス生活25年の区切りとして、企画されたものであり、このリーグ戦の先には、日本選手権開催による日本人レスラーNO1を決めるという構想も踏まえたものです。
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 この日本リーグ戦には全日本プロレスが当初全面協力しています。鶴田以下主力選手を6名、このリーグ戦に派遣しています。「ジャンボ鶴田、グレート小鹿、大熊元司、ロッキー[羽田、ミスター・サクラダ、石川孝志(この時はフリーとして)」これに加えてキム・ドクも斡旋していますから全面協力と言っていいでしょう。
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 ところがあることをきっかけにこの友好関係は破綻を迎えることになります。それは11月25日の蔵前国技館大会に新日本プロレスから、ストロング小林と小林邦明の2名が派遣されることになったからです。このことを聞いた馬場は激怒し、全日本プロレスが送っている選手を引き上げることも考えたそうです。
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馬場の立場としては、今まで国際と手を組んで、新日本プロレスと対抗していく形でやっていたのに突然に国際に新日本プロレスの選手を上げると言われたのですから、怒るのは当然かと思います。

 馬場の性格を考えれば、そんなことをすれば国際プロレスと縁を切ることになるのは、分かり切ったことです。事実この日本リーグ戦を最後に全日本プロレスと国際プロレスの提携関係は終了します。
 ここで一つの疑問が浮かび上がります。
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「吉原社長は、新日本の選手を馬場に断りなしに上げれば、全日本と終わりになることが分からなかったのか。」という疑問です。 
私はそれは当然分かっていたと思います。吉原社長は最初から全日本から新日本プロレスに提携を乗り換えるつもりで、このリーグ戦を企画したと思います。  

 そのことを証明する事実として、ほぼ同時期に新日本プロレスで、やはり日本人によるリーグ戦の「プレ日本選手権」が、開催されています。つまりこの二つのリーグ戦のそれぞれの優勝者を戦わせて日本選手権とするプランが国際と新日本との間で企画されていたということです。

 それを裏付ける事実としてこの年の9月に国際と新日本が何回か会談をしていますが、その内容はシークレットにされ馬場には具体的な内容は分かっていません。この時におそらく国際と新日本の提携話は決まったのだと思います。ただそのことを馬場に知られてしまうと日本リーグ戦への全日本勢の派遣は止められてしまうので、この会談の内容はシークレットにする必要があったのです。
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 言い換えると吉原社長は日本リーグ戦までは、全日本を利用する必要があった。そして、全日本と提携が打ち切られてもいい段階で新日本との提携路線を明らかにしようと思っていたということです。

 これは明らかに全日本に対する裏切り行為であり、仁義を欠いた行為のように思えます。では何故吉原社長はこのようなことをしたのでしょう。その根底に馬場に対する恨みがあったと思います。ここで考えていただきたいのが、吉原社長が新日本と会談を持った時期です。

 そう昭和53年の9月と言えば、昭和プロレスを巡る謎その5で書かせていただいたマスカラス事件があった時期です。おそらく吉原社長はこのことを根に持ち、全日本から新日本への鞍替えを決意したのだと思います。

 そう考えるとすべてのことが腑に落ちます。
昨年出版された「東京12チャンネル時代の国際プロレス」によると吉原社長の狭量で見栄っ張りの性格が記述されています。おそらくマスカラスを送ってくれなかったことは。自分のメンツをつぶされたと怒りを覚えたのでしょう。そこですぐに新日本への鞍替えを考えたのだと思います。そうジャイアント馬場への復讐として。
           
 それが日本リーグ戦が全日本の全面協力から始まり、新日本との提携路線への変更に終わった答えかと思います。

最後まで読んでいただきありがとうごさいます。