3つの宝箱

私にとっての3つの宝物といえるプロレス・映画・学生時代の思い出や、日々の雑感を語るブログです。

アメリカで感じたWWFの進化とファンのシビアさ

 アニマル・ウォリアーが亡くなりました。ホーク・ウォリアーも既に鬼籍に入っているためロード・ウォリアーズが二人とも、この世を去ったということです。
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 SNS ではアニマルの死去を嘆く書き込みが多くされています。それらの多くはウォリアーズは凄いチームだったと書き込んでいます。 
 おそらく日本でのウォリアーズしか、知らないファンの記憶には、ウォリアーズが相手を秒殺する姿が焼き付いているのだろうと思います。
 
 私もウォリアーズが一時代を築いた伝説のタッグであることは否定しません。彼らがアメリカと日本で一時代を築き、ファンを熱狂させたことは事実です。

 しかし私がウォリアーズを思う時には、その全盛期とは別の光景が記憶に甦ってきます。
それは、1999年のレッスルマニア15で見たウォリアーズの晩年の姿です。

この時に私は「ターザン山本と行くレッスルマニアツアー」に参加して、レッスルマニア15を見に行くために渡米しました。
この時に参加した理由はレッスルマニアを見に行くより、ターザン山本と話をしたいという気持ちが、大きくそんなにWWFが見たいという訳ではありませんでした。
したがって、アメリカンプロレスに対する知識もそんなにありませんでした。
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 WWFに関しては、ホーガンがトップだった頃の大味なバワーファイターばかりの団体という印象しかありませんでした。ツアーに参加した中には、私と同じ認識の人も何人かいました。
しかし、この認識が古いものでWWFが大きく進化していることを、このツアーで思い知ることになりました。

 この時に観戦したレッスルマニア15は過去に私が観戦したプロレス興業の中で、間違いなく最高のものでした。
演出も素晴らしいですし、出場するレスラーが、全て自分の役割を熟知していて、一級のエンターテイメントワールドを作り上げていました。後にも先にもこんな素晴らしい興業を体験したことはないです。
 WWFが大味なバワーファイターだけの団体というのは、間違った古い認識であることを思い知らされました。

 話をウォリアーズに戻します。ウォリアーズはレッスルマニア当日、その本大会前のアンダーカードに出場していました。(テレビに映らない試合です。)
ウォリアーズの出場を知らなかった私と日本から来た一部のファンは喜びました。
しかし、アメリカのファンと日本から来たファンでも、アメリカンプロレスに詳しい人は白けていました。
無反応と言ってもいい冷めた反応でした。

 彼らの対戦相手はオーエン・ハートとジェフ・ジャレットでした。当時の私の印象では二人ともジュニア・ヘビー級の選手という印象でした。
試合もウォリアーズが秒殺するのかなと思いました。
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 しかし現実は大きく違いました。まずオーエンとジェフが入場するとウォリアーズとは比べ物にならない歓声が起きて、ファンは大喜びしていました。
 この時に(もしかして、この二人の方がウォリアーズより格上なのかな?)という思いを抱きました。

 そんな私の違和感ともいえる思いと共に試合が始まりました。ウォリアーズがいつもの秒殺スタイルでオーエンとジェフに襲いかかった時に、会場全体に日本では聞いたことのない、コールが響き渡りました。 

 それは「ボーリング❗ボーリング❗」という大合唱てした。私はこのコールの意味が全く分かりませんでした。そばにいたツアー客の一人に聞くと
「ああ、これはお前らの試合はつまらない。」って意味ですよ。ウォリアーズはもう完全に過去の人なんですよ。」と教えてくれました。

 私はこの言葉に驚きました。まだブーイングなら分かります。ヒールとして客を沸かせてるわけですから、それはヒールレスラーとしての存在証明と言えます。しかし「ボーリング❗」は意味が違います。
「お前らの試合は見るに値しない。」と存在価値を否定されてるわけですから。

 私の驚きをよそに試合は5分程度で、ジェフジャレットがギターでホークを殴って失神させ勝ちました。その結末に会場のファンは大喜びでした。
私はこの試合結果に驚きつつも、時代が変わっていることを痛感しました。
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 その後日本に帰った私はスカパーと契約して、WWFを見続けました。それで改めて思ったのは、
WWFは常に進化を続けているということです。
時代の要請に合わせて常にニュースターを産み出そうと努力しているということです。
 これは当時のライバル団体WCWに既存のビッグネームを取られたWWFが、そうせざるを得なかった訳ですが、その結果爆発的な人気を得ることが出来たわけです。
 
 当然そこでのレスラーの生存競争はシビアなものになり、変化できないものは淘汰されていきました。その中にウォリアーズも含まれていたということです。ウォリアーズは色んな抗争相手とその都度ドラマを作ることが出来なかったということです。

 私はそれで良かったと思います。ウォリアーズが抗争相手に合わせてスタイルを変化していけるような器用なレスラーなら、ここまでファンの記憶には残らなかったと思います。

 いつも決まったパターンの試合しか出来なかったので、その分ファンの記憶に残るチームになったのだと思います。
 特に日本のファンの記憶には強いウォリアーズしか残っていないのだと思います。
 日本には、たまにしか来日しない特別参加がほとんどだから飽きられることもなかったのかも、しれません。

 そう考えるとアメリカで10年以上も一つのスタイルで一線を張りつづけたのは、凄いことだと思います。
アニマルに哀悼の意を表しつつ、この投稿を締めくくらせていただきます。
ウォリアーズよ永遠に❗
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 最後まで読んでいただきありがとうございます。

昭和プロレスを巡る謎その4(昭和全日本プロレスにおける両者リングアウトの謎)

 昭和の全日本プロレスでは、試合の完全決着が着かないことが多くありました。その時の決着方法としては両者リングアウトや反則決着などが用いられました。これらの決着ですと対戦した両者に傷がつかないため、特に全日本プロレスでは多くの試合が、これらの終わり方になっていました。

 特に両者リングアウトはファンから見て、同格の対戦相手同士が戦う時はこの決着になることが常でした。例えばブッチャーとブロディとかどちらも負けることが許されないような試合の時は、ほぼ両者リングアウトもしくは、どちらかの反則勝ちで試合が終わっていました。

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昭和の終わりから平成にかけて、この不完全決着に対する不満が高まり、全日本プロレスでは完全決着がつくように改革が進みました。いわゆる四天王プロレスが、その完全決着が着くプロレスの完成形かと思います。

ただ私個人の思いとしては、両者リングアウトや反則決着は昭和プロレスにおいては、必要悪だったと思います。

その理由としては、やはり前述したように同格の選手同士が戦った時に、双方に傷がつかないこと。これが一番大きいですが、それ以外にも完全決着がつかないが故に自分の想像を膨らませることが出来ました。結果は両者リングアウトだけど、本当はあっちの選手の方が強いななどと、試合中の攻防から自分で想像を巡らせることが出来たのです。

そういう楽しみ方を私はしていました。

 今回はその両者リングアウトのおける謎の話です。同格の選手同士が戦って両者リングアウトになることが普通ですが、全日本プロレスで不思議な両者リングアウトが連発されたシリーズがありました。昭和56年の最強タッグリーグ戦でのことです。

その張本人は、全日本プロレスの御大ジャイアント馬場です。

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このシリーズに参加したチームの中にBVラシクとKKクラップのチームがいました。二人とも過去に国際や新日本に参加した時はエース級の選手でした。しかし、この最強タッグ参戦時は既にピークを過ぎており、リーグ戦の結果は最下位に終わっています。

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この二人と馬場がシングルで対戦して、共に両者リングアウトの結果に終わったのです。私はこの試合結果を新聞で知ったのですが、とても不思議に思いました。馬場とこの二人が引き分けで終わる理由がないからです。

馬場は全日本のエースであり、この二人より遙か格上の存在です。普通に考えれば短時間でピンフォールをとって当たり前の相手です。それが何故二人共と両者リングアウトに終わったのかと腑に落ちませんでした。

ここからは、私の想像です。これは二人に対する馬場の忖度だなと当時思いました。リーグ戦最下位の二人に対して、何か手土産を持たせてやろうと馬場が思ったのではないかということです。

日本から帰る時にリーグ戦最下位の結果だけでは、二人の今後の海外での試合にプラスになることがありません。ですがジャイアント馬場と引き分けたという事実があれば、それを現地のプロモータ-にPRして自分の価値を高めることが出来ます。そのために馬場があえて二人と両者リングアウトの試合結果に終わらせたのではないかと思います。

その根拠は、馬場が凄くレスラーの序列や勝ち負けに神経を使っていたからです。そのことを示すエピソートがあります。

これは平成のことですが、チャンピオンカーニバルという総当たりリーグ戦が開催されている時のことです。ファンサービスの為に、当時リングアナだった仲田龍氏がカーニバルの星取り表を会場に貼りだしたことがあります。

これに馬場が激怒して、すぐにそれを剥がさせたことがありました。その理由は負けが立て込んでいる選手がそれを見たら気分が悪いというものでした。

そこまで選手の勝ち負けに神経を使っている馬場だからこそ、リーグ戦最下位のクラップ・ラシクに対して忖度したのではないのかなと思います。

リーグ戦は最下位でも馬場と引き分けるという大きな手土産を持たせて、二人のプライドを傷づけないようにした。そんな風に思えてなりません。あくまで私の想像であり的外れかもしれません。ただそう考えると話の辻褄があうことも事実です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

昭和プロレスを巡る謎その3(ジャイアント馬場とラッシャー木村の不透明決着の謎)

 国際プロレスが存在していた時に、全日本プロレスのジャイアント馬場と国際プロレスのエース、ラッシャー木村との対決は2回行われています。

一度目は、昭和50年12月17日の千葉公園体育館。全日本主催のオープン選手権の公式戦として行われています。

二度目の対決は昭和53年2月18日蔵前国技館。この時は全日本・国際・韓国の三軍対抗戦のメインイベントとして行われました。

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2戦の試合結果はいずれも馬場の勝利で終わっていますが、2回とも物議を醸す決着となりました。

初対決の時は、ブッチャ-が乱入し最初に馬場を襲いましたが、その後は木村に凶器攻撃をしかけ木村は大流血をし、馬場に河津落としで仕留められています。

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二度目は、馬場が四の地固めを仕掛けたところ、木村がロープに逃れますが、何故かレフリーの芳の里がロープブレイクを認めず木村はエプロンから上半身宙づりになったままリングアウト負けをとられています。

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いずれも完全決着とは言えない終わり方で、特に国際ファンには不満が残った終わり方でした。では何故2回ともこのような不透明な終わり方になったのでしょう。

そこには、馬場と吉原社長の双方の思惑とすりあわせがあったと思います。

 まず馬場の立場としては、木村は格下の後輩であり負けることは絶対許されない。

完全決着で勝って当たり前ということです。

一方国際の立場としては、木村が完全決着で馬場に負けてしまうと、「国際のエースは全日本のエースより弱い。」ということが明確になってしまいます。

そうするとその後の国際単体での興業に支障が出ることは明白です。全日本より格下の団体ということが明確になると客足が落ちることは避けられません。

そこで着地点として落ち着いたのが、「木村は馬場に負けるけれど、負けた理由に言い分けがつくような終わり方にしよう。」ということだったのではないかと思います。

事実初対決の時はブッチャ-の乱入のダメージがあったから負けたと吉原社長は抗議しています。ファンも「なるほど、そう抗議するのも最もだ。」と思ったことでしょう

二度目の時は、もっと抗議しやすい形にしています。「木村は明らかにロープにエスケープしているのに、それを認めないレフリーがおかしい。」という風に当時誰もが思ったことでしょう。

この2回の不透明な終わり方により、「木村は馬場に負けたけど、あの負け方はおかしい。」こうファンに思わせることが出き、木村のイメージダウンは最小限に留められたと思います。

遙か格上の馬場がこのような終わり方を飲んだ理由としては、「完全に国際プロレスを潰してしまってはまずい。」という考えもあったと思います。

これは馬場が国際のことを思ったわけでなく、ビジネスとして考えた時に過去の経験から「日本人だけの対抗戦は儲かる。」という考えがあったと思います。

事実、国際との対抗戦では双方に利益が出て馬場が、「日本人だけで興業を打つとこんなに儲かるのか。」と言ったそうです。

 

今後も国際との対抗戦ビジネスを継続するためには、完全に国際プロレスを潰すわけにはいかない。そのため木村との試合は不完全決着にしたのではないかと思います。

今となっては真実は藪の中ですが、そう考えると辻褄があってくるのではないかと思います。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

めちゃイケでの横山由依に見たプロ根性

去年の話ですが、ナインティナインの「めちゃ×2イケてるッ!」の中で女子プロレスの企画がありました。当時めちゃイケが終了になるということで、この女子プロレスの企画も最後ということで企画されたものです。
この時オアシズの光浦靖子とAKBの総監督横山由依が試合をしました。この時の試合が後日ネット上で、少し物議をかもしました。
その試合に触れる前に少し横山由依のことについて述べさせてもらいます。
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横山由依は、今では誰もが知っているAKBの総監督ですが、私が横山由依を知ったのは今から5年前にたまたま「京都いろどり日記」を見たからです。
「京都いろどり日記」は、関西で放送されている京都のいろんなスポットを横山が巡る番組です。
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その時初めて、横山由依を知ったのですが、一言で言うと「めちゃめちゃいい娘」だなと思いました。
番組の内容は、横山が京都のいろんな場所を周りロケを行うものです。
その時に当然色んな初めて会う人と横山とのやり取りがあるのですが、その応対から彼女の人柄の良さが、にじみ出ていました。
また私が何より感心したのは、視聴者からの手紙を読むコーナーで、一つ一つの質問に凄く真摯に答えていたことです。決して質問をすかしたり、かわしたりすることなく、常に真正面から答えている姿に
(あぁ、この娘ええ子やなぁ)と感心したものです。
実際私が質問を送った時も、凄く真剣に考えて回答してくれて嬉しく思ったものです。
その時から「京都いろどり日記」は、毎回欠かさず見ていますが、横山への印象が変わることはありませんでした。

その横山が光浦とプロレスの試合をしたのですが、ネット上で、光浦への攻めがえげつなさ過ぎると批判されたのです。
特に問題とされたのは、横山が光浦に合計で5発放ったトラースキックです。WWE のレジェンド、ショーンマイケルズばりの見事な蹴りでした。
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この蹴りが「シビア過ぎる」とか「バラエティーなのに」とか色々と批判されました。
私は、この番組を見ていましたが結論から言うと横山への批判は、全く的外れだと思います。
横山は、プロのタレントとして自分の役割を全うしただけなのですから。

そもそもこの一戦は光浦の強い希望で実現したものでした。めちゃイケの終了に伴い、当然めちゃイケ内の女子プロレスも終了になります。
それで最後に悔いを残さないために試合をしたいという光浦の熱い思いで実現した試合です。そういう思いで試合に望んでいる光浦に対して下手に手加減した蹴りを放つことこそ失礼ですし、批判されるべきです。
そこを横山は、充分に理解して自分のヒール(悪役)としての役割を全うしただけなので、誉められこそすれ批判されるのはおかしいと思います。

前述したように本来の横山は、凄く優しい性格のいい娘です。その横山が本来の自分とかけ離れたヒールを演じきったプロ根性を称えたいと思います。
いかに試合の中の役割とはいえ、自分の倍ぐらいの年齢の光浦の顔面を思いっきり蹴ることに躊躇や葛藤があったと思います。されど試合になると全くそういう素振りを見せずにプロとして徹底した横山は、立派でした。

試合後に光浦に話しかけた時の横山は、涙ぐんでいました。光浦の頑張りへの感動と仕事とはいえ厳しい攻撃をしかけてしまったことに対する罪悪感が、一気に吹き出したような感じでした。
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試合が終わって素の横山由依が出てしまったのだと思います。
本来の優しい性格を隠しきれなかったのです。
しかし仕事ではその性格を押し隠しプロに撤しきる横山由依を応援しています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

昭和の新日本プロレスを決定的に嫌いになった理由

今まで私のブログを読んでいた方なら、薄々分かっていただいていると思いますが、私は昭和の全日本プロレス派です。
プロレスラー個人のアントニオ猪木は、本当に素晴らしいレスラーで猪木の試合には魅了されたものです。
ただ団体としての新日本プロレスが、どうしても受け入れられませんでした。
一番大きな理由は、他団体を落としめて自分の団体だけが利を得ようとするやり方が、大嫌いだったのです。

国際プロレスからエースのストロング小林を引き抜いたり、全日本プロレスの馬場に対する挑発行為。
自分のところは、ストロングスタイルで全日本はショーマンスタイルとの誹謗中傷。
挙げ句の果てにショーマンスタイルと見下していたその全日本プロレスから選手の引き抜き。
他団体を潰すためには、何でもするという姿勢に嫌悪感を感じたものでした。

ただそのほとんどは、猪木のブレーンの新間寿が行ったもので、猪木に対しては直接の嫌悪感は持っていなかったのです。
何より前述したように、レスラーとして猪木は本当に魅力的だったからです。

そんな猪木も含めて、新日本にとことん嫌悪感を持つようになったのは、国際プロレスが崩壊した後のことです。
ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の元国際勢三人が新日本プロレスに上がることになりました。
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彼ら三人に対する新日本プロレスの扱いは、ひどいものでした。
猪木に敵対する訳ですから、悪役として扱われるのは仕方ありません。ただ対等の敵として扱うのではなく、ひどく格下扱いして終始見下していました。

これは、当時の新日本ファンのせいでもあります。
当時の新日ファンは、熱狂的猪木信者が多く猪木に敵対するものは、憎悪の対象になりやすかったのです。特に木村たち三人に対しては、「潰れた団体の奴らが、生意気に猪木に立ち向かいやがって」とファン自体が、彼らを見下していたため、会場での憎まれ方も凄まじいものでした。何しろ出てくるだけで「帰れコール」の大合唱。某プロレス誌の記者が「団体が潰れて、帰る場所のない人間に帰れコールとは、ひどすぎる。」と新日本のファンの人間性を嘆いていたものです。
その木村たちの憎まれ方を見て、新日本のフロントや猪木が徹底的に悪役扱いして集客に結びつけようと思ったわけです。

度重なる乱入や反則行為猪木の髪を切って逃げたり、三人で拉致して暴行など国際軍団への新日本ファンの怒りは、頂点に達します。
そこで猪木が言ったのが「お前ら三人まとめてかかってこい!」そして実現したのが、伝説の猪木一人対国際三人のハンディキャップマッチです。

このマッチメークが決まった時私は「ひどすぎる。」と本当に新日本と猪木のやり方に嫌悪感を感じ、決定的に新日本が嫌いになりました。
仮にも国際プロレスでエースだったラッシャー木村に、こんなひどい扱いをするのかと憤りました。勝っても負けても国際の三人には、全くメリットがない上に、三人がかりでやっと猪木と対等とイメージダウンする訳です。
(いくら客が呼べるからって、こんなひどいことよく考えるな。)と、本当に猪木と新日本が嫌になりました。会場に試合を見に行った親子連れの子供が、泣きながら猪木のやり方のひどさを親に訴えていたという記事を読みましたが、同感です。

あの時木村達に罵声を送っていた新日本ファンも、今は、いい年になっていると思います。それぞれ社会に出て色々苦労したかもしれません。
中には木村たちのように、会社が倒産して新しい会社で、苦労した人もいるでしょう。
その時初めて、当時の木村達の気持ちが少しは分かったのかもしれませんね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

ミスタ-高橋の暴露本の20年前にプロレスの仕組みを自らばらしていた新日本プロレス

2001年に元新日本プロレスのレフリーのミスタ-高橋の「流血の魔術最強の演技」が出版されプロレスの内幕が、赤裸々に書かれました。
プロレスが結末のあらかじめ決められたものであり、真剣勝負ではないという事実が明らかにされ、ショックを受けたプロレスファンも多かったと思います。

私は小学生のころからプロレスを見ていましたが、真剣勝負と思ったことはなく、色々と決めごとはあるのだろうなと思いつつ見ていました。

かといってプロレスを斜めに構えて見ていた訳ではなく。内幕はあるんだろうけど面白いからいいやという感じで見ていました。何というかグレ-を面白がる感覚ですね。
たから、何事も白黒をはっきりつけたがる人は、プロレスを受け入れられないだろうなというのは、子供ながら理解していました。

ミスタ-高橋が本を出した時には、(あ-あっ、野暮なことをしてくれるな)と思いましたね。言わなくてもみんなが、何となく分かってることをはっきり言ってしまったなという感じでした。

ただこの高橋の本の20年前にはっきりとプロレスの仕組みを感じてしまった事件がありました。
それは「プロレスはキングオブスポーツ」と当時猪木が主張していた新日本プロレスで起きました。

1981年の8月に猪木と新日の常連外国人のマスクドス-パ-スタ-が覆面剥ぎマッチで戦い、負けたス-パ-スタ-がマスクを取られた試合がありました。
それだけなら、別にどうということもない話でマスク剥ぎマッチなどプロレスではよくあることで、敗者が素顔をさらすことも珍しくありません。
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問題はその後です。このマスク剥ぎマッチの時マスクを取られたス-パ-スタ-は直ぐに素顔をタオルで隠したために、あまり素顔が露呈しなかったのです。
それで新日本プロレスは、その次のシリ-ズくらいに素顔のマスクドス-パ-スタ-を別人のビリ-クラッシャ-という名前で来日させたのです。
ただある程度プロレスに詳しいファンなら、ビリ-クラッシャ-がマスクドス-パ-スタ-ということは知っていました。
それなのにゴングや月刊プロレスのような専門誌もビリ-クラッシャ-をス-パ-スタ-と別人のように扱っていたので、(茶番やわぁ)と思ってました。
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さてクラッシャ-が来日したシリ-ズですが、ここでタイトルに挙げた事件が起こります。その前にみなさんに理解しておいて欲しいのは、当時のマスクドス-パ-スタ-のランクなんです。
彼は当時の新日の常連外国人で、トップの猪木には負けるけども2番手3番手の坂口や藤波には、そう簡単には負けないぐらいの扱いだったわけです。
なので、それ以下の新日の日本人レスラ-は、絶対勝てない存在だったわけです。

このシリ-ズにビリ-クラッシャ-は、全くテレビに出ることがなかったので、私はゴングのシリ-ズの試合結果を全部掲載した熱戦譜で彼の試合結果を調べて驚いてしまいました。

何と当時新日の4番手か5番手ぐらいの長州にどの会場でも10分足らずで負けてるんです。当時の長州と言えば外国人レスラ-の噛ませ犬的扱いで、いつもシンやハンセンに3分くらいて負けていたんです。
その長州にビリ-クラッシャ-つまりス-パ-スタ-が負けてるんです。
これってマスクドス-パスタ-は新日の大事な外国人だから、長州に負けることはないけど素顔のビリ-クラッシャ-は商品価値がないから負けさせてもいいってことだなと、瞬時に理解しました。

案の定ほとぼりが冷めて、再びマスクドス-パ-スタ-として来日したビリ-クラッシャ-は、長州に負けることはなかったです。
同じレスラ-がマスクをつけるつけないで、強くなったり弱くなったりすることなどありえません。

(新日本プロレスやってくれたな。迂闊だな。)と当時思ったものです。ただ地方の会場のことであり、ビリ-クラッシャ-が一度もテレビに出なかったため、このことに気づいた人は当時少なかったかも知れません。
私は(やっぱりなあ)と思ったくらいでプロレスに幻滅はしませんでしたが、ひょっとしてこのことでプロレスから去って行った人もいたのかなあと思います。

今のプロレスファンは、全てを理解してプロレスを楽しんでいるので今なら全く気にもされない話かもしれませんね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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「情熱大陸」の棚橋を見て驚いた2つのこと。

先日の「情熱大陸」の棚橋の回で、驚いたことが2つありました。
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一つめは「新日の道場から猪木のパネルを撤去したこと。」
言うまでもなく、猪木は新日本プロレスの創業者。
その人のパネルを外すというのは、なかなか出来ないことと思います。
そこに手をつけた棚橋に変革への強い意志が、感じられます。
恐らく棚橋は、新日がいつまでも猪木イズムの呪縛に縛られていたのでは何も変わらないし、そのためにはまず猪木のパネルを外すことが必要と考えたのでしょう。
ただ分かっていても、それを実行するのは勇気のいること。
それを実行した、棚橋は素晴らしいと思います。
その結果として、今の新日本プロレスがあると思います。
色んな個性的なレスラ-が、輝ける場になったのはそこが出発点だったのかなと思います。

二つ目は「レスラ-はリングに居なくてはいけない。」という発言。
これも昔の新日の考え方とは、真逆なんですよね。
確か長州だったとおもうんですが「コンデションの悪い状態で無理してリングにあがってへたな試合を見せるぐらいなら休んでもいい。」

実際に新日のレスラ-って欠場することが、結構あったと思います。
それだけ、人材が豊富だったということだと思いますが、お目当ての選手が欠場していたらガッカリしますよね。
特に棚橋が言ってたように「年に1、2回しかプロレスがない地方」それで当日お目当ての選手が欠場していたら淋しい気持ちになりますね。

それを踏まえての棚橋選手の発言は、プロとして立派と思います。
実は棚橋選手のこの発言って、昔馬場さんが言ってたことと全く同じなんですよ。

そういったところも、棚橋選手が本当に昔の新日イズムから全く解き放たれた考え方をしているんだなあと今回驚いた次第です。
膝も大分悪いのに日々ファンのために頑張る棚橋選手を応援しています。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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